被爆資料

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資料詳細

識別コード 3401-0035
資料名 布製かばん
資料名(英語)
寄贈者(カナ) 慶徳 進(ケイトク ススム)
寄贈者(英語) KEITOKU Susumu
受入年月日 2013/6/25
寸法(幅×高さ×奥行)(mm) 360×280
寸法(その他)
被爆地(旧町名) 中島新町
被爆地(現町名) 中島町
爆心地からの距離(m) 600
数量 1
内容 県立広島第二中学校1年生の慶徳清さん(当時13歳)は、中島新町の建物疎開作業現場で被爆した。夜通し待っても帰ってこない清さんを心配した母のサダメさん(当時36歳)らは、翌7日、府中町の自宅から入市したが、街はたくさんの死人とけが人でこの世の地獄だった。必死で捜しまわったものの清さんは見つからず、帰宅した夕方、清さんは級友たち5~6人とトラックで運ばれて帰ってきた。清さんは、スルメが焼けたように、全身が茶色のようなピンクのような状態になっており、意識は朦朧としていた。目も見えていないようで、苦しんでいたが、よく兄弟で将棋をしたのを思い出したのか、弟の進さん(当時9歳)の名前を呼び、「王手!」とうわごとを言った。近所の医者をよび、手当てを受けたが、翌8日の8時15分、清さんは亡くなった。
このかばんは、清さんが8月6日に身につけていたもの。母のサダメさんは、亡くなるまでこのかばんを大切にしていた。弟の進さんにとっては、前日の5日に清さんや近所の子供たちと一緒に泳ぎにいったのが、元気な兄との最後の思い出となった。
ブロック別 吉島・舟入・観音地区
展示説明文 布製かばんと袋
寄贈/慶徳進[ケイトク ススム]
爆心地から600m 中島新町[ナカジマシンマチ](現在の中島町[ナカジマチョウ])
寄贈者の兄・県立広島第二中学校1年生の慶徳清[キヨシ]さん(当時13歳)は、学徒動員先である建物疎開作業現場で被爆しました。夜通し待っても帰ってこない清さんを心配した母のサダメさん(当時36歳)らは、翌7日、郊外の自宅から入市し、必死で捜しまわりました。夕方帰宅すると、清さんが、トラックで運ばれて帰っていました。近所の医者を呼び、手当てを受けましたが、8日の8時15分、清さんは亡くなりました。このかばんと袋は、清さんが8月6日の朝、持って出かけたものです。母のサダメさんは、当時のことをノートに書き残しています。
「清の事が心配で私の胸はいたむ 日が暮れる頃になっても帰らない とうとう夜通し外で待っていたが帰ってこない 清はどうしていることだろう 唯々そればかり とうとう夜が明けた べんとう持って地下足袋がけで本家のおばあさんと二人で清さがしに出かけました たくさんの死人 けが人 馬の死んだもの ほんとうに この世の地獄でございました (中略) 子を亡くした位悲しいことはございませんでしょう 一生涙の種です 42年経った今日でも泣かない日はございません 可愛い清よ 昭和62(1987)年8月8日」

<寄贈者で清さんの弟・進さんの話より>
兄と私はとても仲が良く、私はいつも兄を「あんちゃん、あんちゃん」と頼り、尊敬していました。
7日の夕方帰ってきた兄は、スルメが焼けたように、全身が茶色のようなピンクのような状態になっており、意識はもうろうとしていました。目も見えていないようで、苦しんでいましたが、よく兄弟で将棋をしたのを思い出したのか、私の名前を呼び、「進・・・王手!」とうわごとを言っていました。原爆の前日に、兄と近所の子どもたちで一緒に泳ぎにいったのが、元気な兄との最後の思い出となってしまいました。
展示説明文(英語) Cloth satchel and pouch
Donated by Susumu Keitoku
600m from the hypocenter Nakajima-shin-machi (now, Nakajima-cho)
Kiyoshi Keitoku (then, 13), the donor’s older brother, was a first-year student at Second Hiroshima Prefectural Junior High School who had been mobilized for building demolition and experienced the atomic bombing at his demolition site. His mother, Sadame (then, 36) and his family were worried when Kiyoshi didn’t return that night, so they left their house in the suburbs for the city the next day on the 7th and frantically searched for him. Returning home in the evening, they found Kiyoshi had been carried home in a truck. They called for a neighborhood doctor and Kiyoshi received medical care, but he died on the morning of the 8th at 8:15. This satchel and puch were carried by Kiyoshi on the morning of the 6th. His mother wrote about the events of that day in a notebook.
(Excerpt)
“My heart hurt with worry of Kiyoshi. He still didn’t return even though the sun was setting. In the end I waited all night, but he didn’t come home. I wondered what happened to him. I could only think about that. Finally it was morning. I packed a lunch, put on work tabi and left the house with grandmother to look for Kiyoshi. There were many dead people. Hurt people. Dead horses. It was really hell on Earth. (omission) I don’t think there is anything sadder than losing your child. It brings with it a lifetime of tears. Even 42 years later, a day doesn’t pass when I don’t cry, my cute Kiyoshi. August 8, 1987”

From the account of the donor, Susumu, Kiyoshi’s younger brother:
My older brother and I were very close. I always called on him for help and respected him. When he returned on the evening of the 7th, his entire body was a brownish pink color like dry squid and he was in a daze. It seemed like he couldn’t see. Although he was in pain, he remembered that we had been playing shogi and called my name yelling deliriously, “Check!” The day before the atomic bombing, I went swimming with my older brother and some children from the neighborhood. This was my last memory of my brother in good health.
資料性質 被爆資料
収蔵場所 収蔵庫2

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