被爆資料

資料の使用等について

資料の使用等をご希望の方はこちらをご覧ください。

資料詳細

識別コード 3101-0209
資料名 女学生の制服
資料名(英語) School uniform
寄贈者(カナ) 隅本 陽子(スミモト ヨウコ)
寄贈者(英語) SUMIMOTO Yoko
受入年月日 2015/1/13
寸法(幅×高さ×奥行)(mm) 1060×440
寸法(その他)
被爆地(旧町名) 尾長町
被爆地(現町名) 光町
爆心地からの距離(m) 2300m
数量 1
内容 県立広島第二高等女学校1年生だった隅本(旧姓:沢井)陽子さん(当時12歳)は、東練兵場で草取りの作業をしている最中に被爆した。
急にパッと光り、今までに感じたことのないような強い光を感じた陽子さんは、思わず畑の畝の間に伏せたが、すでに右の首から腕にかけてと腿に大火傷をしていた。しばらくして視界が開け、陽子さんは裏の山に避難した。焼けたところが熱いような気がしたため、制服とモンペを脱ぎ、シュミーズとパンツ姿になったが、ズック(靴)は地面が熱く裸足では歩けないので脱がなかった。夕方、軽傷の友達に抱えられて、東練兵場にできたテント張りの救護所へ行ったが、赤チンしかなく、つけてもらうと皮膚がひっぱられて痛かった。それからまた友達に支えられて、宇品の女専(内にあった第二県女)へ向かった。足から出る汁でズック(靴)の中は歩くたび、ぐじゃっ、ぐじゃっ、と雨降りの時みたいになった。
その夜は学校で一晩過ごし、翌日、陽子さんは捜しに来た母の春代さんと学校で再会した。火傷の陽子さんを見た春代さんは、いったん陽子さんの父の勝一さんの里の上安から大八車を借りて、親戚たちと戻ってきた。大八車には大火傷の勝一さんが乗せられていた。勝一さんは夜勤明けだった6日の朝、自転車で上安へ疎開の荷物を運んでいる途中、泉邸の側で被爆し、千田町にあった会社の防空壕に避難していた。陽子さんは勝一さんと一緒に大八車に寝かせられたが、2人とも裸同然のような恰好だったため、大八車がガタガタと動くたびに、お互いの傷がこすり合って痛かった。上安に戻ってからは、母の春代さんが看病に努めた。看病といってもたいした薬もなく、塩水で軽く傷あとを洗い、赤チンをのせ、その上に天ぷら油をつけるという繰り返しだった。そんな調子で陽子さんは9月末くらいまでは動くことができなかった。
この制服は、被爆時に陽子さんが着ていたもの。陽子さんの体にはケロイドの痕が残っており、結婚するまでは服を見るのも嫌だったが、だんだんと気持ちも変化し今日まで頑張ってきたという。
ブロック別 牛田・広島駅周辺地区
展示説明文 制服ともんぺ
寄贈/隅本陽子氏(旧姓:沢井)
 県立広島第二高等女学校1年生だった隅本陽子さん(当時12歳)が、被爆時に着ていた制服ともんぺです。
 陽子さんは、東練兵場で草取りの作業をしている最中に被爆しました。畑と畝の間に伏せましたが、腿と首の右から腕にかけて大火傷をしました。夕方、救護所で赤チンをつけてもらうと、皮膚がひっぱられて痛かったそうです。それから陽子さんは学校へ向かいました。足から出る汁で、靴の中は歩くたび、ぐじゃっ、ぐじゃっ、と雨降りの時のようになりました。
 翌日、捜しにきた母の春代さんが、親戚たちと、陽子さんを大八車に乗せて、家に連れて帰りました。大八車にはすでに父・勝一さんが乗せられており、大火傷でした。勝一さんは自転車で疎開先へ荷物を運んでいる途中に、縮景園の側で被爆していました。2人とも裸同然のような格好だったため、大八車がガタガタと動くたびに、お互いの傷がこすれて痛かったそうです。
(隅本さんのお話より)
原爆のことは悲惨な話だし、家族はあまり聞きたがりません。
人にもあまり言ったことはありません。
(服ともんぺは)結婚する時、母が「あなたが持っていた方がいいだろうから」と持たせてくれました。
それまでは見るのも嫌でしたが、だんだんと気持ちも変化して、
辛い時は服を取り出して、あの時を乗り切ったんだから、
少々のことは大丈夫と言い聞かせて、今まで頑張ってきました。
少しでもお役に立てばと思います。
戦後も、人前では自然と傷(ケロイド)をかばうような動作をしていました。
旅行に行っても人がいたらお風呂には入りませんでした。
展示説明文(英語) School uniform and work pants
Donated by Yoko Sumimoto(maiden name Sawai)
These are school uniform and work pants that Yoko Sumimoto(then, 12), a first-year student at Second Hiroshima Prefectural Girls High School, was wearing on August 6.
 Yoko was exposed to the atomic bomb while weeding the Eastern Drill Ground. She lay flat between the ridges in the field, but received severe burns on her thighs and from the right side of her neck down to her arm. She had her burns treated with Mercurochrome at a relief station in the evening, and her skin was strained and painful. Then she headed to her school. Body fluid came out from the wounds on her feet, and every time she took a step, the inside of her shoes got wet as if she were walking in rain.
 The next day, her mother Haruyo and her relatives took Yoko to her home on a large hand-cart. Her father Katsuichi, who was severely injured, was also on the cart. He was exposed to the atomic bomb near the Shukkeien Garden while carrying luggage to his evacuation site on his bicycle. Both Yoko and Katsuichi were nearly naked. When the cart bounced up and down, their wounds touched and rubbed against each other, and caused further pain.
(From Yoko's account)
The atomic bombing was so horrible that my family doesn't want to listen to my story. I have rarely shared my experience of the bombing with them or anyone else.
My mother gave this school uniform and these work pants to me when I got married, saying "You should keep these.・Up until that time, I had hated even looking at them, but my feelings changed gradually over time. Whenever I encountered some difficult problems, I pulled out the uniform and work pants to remind myself that since I was able to overcome such huge difficulties in those days I would be able to deal with some small problems now.
I hope that my story and these items will help convey the horror of the atomic bomb.
After the war, I would always unconsciously hide my wounds (keloid scars) in public. Whenever I used a public bath on a trip, I would never take a bath if there was someone else there.

資料性質 被爆資料
収蔵場所 収蔵庫2

被爆資料写真原爆の絵美術品についてのお問い合わせ先

広島平和記念資料館 学芸課


電話:082-241-4004 FAX:082-542-7941